広機設計株式会社 歴史のページ 『激動の時代を生き抜いた設計者たち』

広機設計株式会社は昭和44年(1969年)に先代社長吉永春松が設立しました。
吉永春松は戦前、誰もが知る戦艦大和の設計に携わっておりました。
当時の戦艦大和の建造計画に関する資料はいまも広機設計の中に大事に保管されており、
平成17年にその一部を『大和ミュージアム』へ寄贈しました。

「A140-F6」型壱号艦建造計画(戦艦大和型1番艦)

明治維新以来日本は欧米の帝国主義列強国がアジアの諸国を次々と植民地化しようとする中、当時の外交カードで最も有効なカード「軍事力」を手に入れようとした。
そして僅かな期間で自国を他国の侵略から防衛する軍事力を手にした日本は今度は自分達も帝国主義国家の仲間入りをしようと海軍力に重きをおいた海洋国家を目指す事になる。
世界中で内政干渉や領土争いが激化していく中、日清日露の両戦争を経験した日本は国際的発言力を獲得するも他の帝国主義列強国からは経済封鎖を含む強い外交圧力を受けるに至った。
財閥を中心に重工業が目覚ましく発展し、主力艦を自国で建造出来る様になった日本はついに世界有数の海軍力を持つに至ったが、帝国主義列強国はその保有を許さなかった。
1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮条約、次いで1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約で軍艦の艦隊保有率を制限された。
しかし海軍の艦隊派や国内の世論に負けて日本政府は1934年(昭和9年)ワシントン海軍軍縮条約を破棄、1936年にはロンドン海軍軍縮条約からも脱退し、これ以降世界は制限なき軍艦建造競争の時代に突入していった。

後に泥沼化する日中戦争が始まった昭和12年、旧日本海軍が一大国家プロジェクトとして当時の最高技術を結集させた広島県呉海軍工廠において極秘裏に巨大戦艦『大和』の建造をスタートさせた。
その設計建造に関わった技術者達は非常に厳しい機密保持管理体制の下、担当する職務以外の情報は一切知らされないままに個々の業務に従事していた。

先代社長である『吉永春松』もその一人である。

彼が担当したのは艦船で最も重要な推進動力の主機、主機の中でもタービンの設計である。大和型に搭載された主機は※②艦本式オールインパルスタービンで推進軸1軸に高・低圧両タービンをそれぞれ2基を減速歯車装置を介して結合し、高圧タービンを減速歯車装置の艦尾側に、低圧タービンを艦首側に配置したツイン構成である。この構成は天城型戦艦で最初に導入されたもので、1軸宛主機2基併結、推進軸4軸で、1艦宛主機8基であった。
タービン自体は、昭和6年度計画の駆逐艦初春型に搭載された使用実績ある艦本式高低圧タービン(1軸当り21,000馬力)を長期信頼性向上のため約90%にデチューンニングし、1軸宛2組(18,750馬力×2=37,500馬力)の構成で、4軸合計150,000馬力として計画された。高圧タービンの初圧は22kg/c㎡と、主缶使用圧25kg/c㎡からやや低く設定されていた。

このタービンは昭和12年4月に製造が訓令さたが、同年12月に駆逐艦朝潮の中圧タービン・ブレードに亀裂が発生し、※①海軍艦政本部内を大きく揺るがす事件へと発展してしまう。
いわゆる臨機調事件である。

この問題を解決するため春松も日夜寝食を忘れ、慣れない工業系の外国語辞書を片手に先駆者である欧米の書物に悪戦苦闘しつつ心血を注いで事に当たった。そうした苦心の末、低圧タービンと後進タービンの設計を改め、ピッチ円径を大きくし各タービンブレード高を短縮させブレード自体を増厚することで、円周方向二節振動共鳴点を安全側にずらしブレード植込部もエ字状に改良するに至った。その結果として信頼性と安全面を両方を確保するには至ったが、当然の如く装置重量が増大し高圧タービンが0.1t 低圧タービンが6.0t 減速歯車装置が1.0t増大し1軸当り13.2t4軸合計で52.8tの増大し蒸気消費量も1.2%増大し熱効率は1%低下すると判定された。

春松は当時の搭載重量と剛性の70数回の検討を振り返り、こう戯けて見せた

「わしゃあ(私は)グラム単位で勝負する飛行機屋にならんでぇよかったわいやぁ(良かったです)」

「船は大けなけぇ(大きいから)少々の事なら
どんぶり(丼勘定)でええけぇのう(よろしいですから)」

日米開戦が迫った昭和16年10月18日、春松は戦艦大和の最上甲板にいた。18日~20日にかけて高知県宿毛港外で行なわれた予行運転の立会試験に臨む為である。予行運転は、公試運転に先立って行われ、公試運転の資料を得るとともに機関の状態を確認するのが目的であった。

春松は初めて巨艦を目にした当時を振り返り、

「ずんぐりしちょってのう、もうちょっとスマートにこさえられんかったんじゃろうか(造れなかったんだろうか)」と正直思ったそうである。

逆巻く白波が木張りの甲板に容赦なく叩きつける荒天の中、各種試験をパスし、いよいよ全力走行実験開始に入ったその時である。今まで自分が立っていた甲板がビリビリと振動し始め、同時に大地から湧きおこる様な轟音が急速に大きくなっていった。現場での緊張感や高揚感で増大した心拍数と、全身を小刻みに震わせる大和の甲高い産声とによって脳が大いに刺激され、背広の袖を伸ばして全身に出来た鳥肌を隠すのがやっとであった。

「もってくれよ~」

春松の気持は波動エンジンを出力120%にした際の宇宙戦艦ヤマト機関長である※③徳川彦左衛門の気持ちとリアルに酷似したであろう。瀬戸内海のキラキラとした穏やかな海を見て育った春松には想像もつかなかった太平洋土佐沖の荒波をでっぷりとした舷側にまともに受けつつ当時としては特異の※④球状艦首(バルバス・バウ)を持つ大和特有の艦首が皺のよった紺碧の絨毯を真一文字に切り裂いて往く。春松を含む主機設計関係者達がが固唾を呑んで見守る中、最後の一滴を絞り出す様に対地速力で27.73ktを記録した。

春松が戦艦大和に乗艦したのは後にも先にもこの一度きりであった。
実際に試乗に立ち会えた事は大変満足であったが、少し残念だったのは楽しみにしていた艦内製造の※⑤『大和ラムネ』が飲めなかった事である。

※①艦政本部(かんせいほんぶ)とは、海軍大臣に隷属し造艦に関係する事務を司った大日本帝国海軍の重要な官衙(官庁)であり、海軍省の外局の一つ。長は本部長であり、原則海軍中将が就任した。1923年(大正12年)以降は研究機関として海軍技術研究所を併設。また欧米の海軍技術研究や国内造船造兵企業の指導監督のために造船造兵監督長・造船造兵監督官を派遣した。1945年(昭和20年)11月の海軍省廃止と共に解体された。
※②艦本式タービンとは日本海軍の艦政本部で開発された蒸気タービン。艦艇用タービンとしては初めて純国産化を達成したタービンである。
※③徳川 彦左衛門(とくがわ ひこざえもん)は、アニメ『宇宙戦艦ヤマトシリーズ』の登場人物。声優は永井一郎、ふくよかな体格に頭頂部まで禿げ上がった白髪、白眉、白髭、そして髪とつながっている白鬚が特徴。ヤマト乗艦前から地球艦隊で沖田十三と共に戦ってきた、昔ながらの戦友かつ一番の理解者。宇宙船機関士としての長年の経験や知識を活かし、地球で最初の波動エンジンの開発・管理を任され、ヤマト機関長に就任した。ヤマトの心臓部・土台とも言うべき機関室から、その屋台骨を支える。
※④バルバス・バウ(英語: Bulbous Bow)とは、船の造波抵抗を打ち消すために、喫水線下の船首に設けた球状の突起。
※⑤大和ラムネとは、大日本帝国海軍の艦艇においては、消火設備として炭酸ガス発生装置が設置されており、これを転用してラムネ製造器として乗組員の嗜好品として供給した事も相まって、戦前から広く庶民に親しまれた。